過去記事で、奈良県桜井市にある大和国一ノ宮・大神神社の、ご神体である三輪山ご登拝の様子と、展望台の桜のことを紹介させていただきました☟
全国的に見れば、奈良県の神社で一番有名なのは、おそらく奈良公園の近くの「春日大社」だと思われるので、大和国一ノ宮が大神神社であることに、驚かれる方もおられるのかもしれません。
ですが、大神神社の北には、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと言われている「箸墓古墳(大市墓)」があり、そこからさらに北側には、弥生時代末期から古墳時代前期にかけて繁栄したと思われる集落跡である「纏向(まきむく)遺跡」が存在します。
また、大神神社の南側は、古くは「磐余(いわれ)の地」と呼ばれ、大和朝廷の中心地でした。
歴史の古さでは、春日大社は遠く及びません。
そこで今回は、大神神社の南東側のエリア、遠い古代に「海拓榴市(つばいち)」と呼ばれ、交通の要所であり、我が国初の仏教伝来の地でもあった辺りを取り上げてみようと思います。
桜のゾーンもご紹介させていただきます(・ω・)ノ
この記事の場所は、以下の地図の黄色線で囲ったエリアです☟
- 第十代崇神天皇皇居跡である磯城瑞籬宮跡
- 廃仏毀釈から守られた「金屋の石仏」
- 「歌垣」で知られる「海拓榴市(つばいち)観音堂」
- 約1500年前の「仏教伝来の地」
- 古代に繁栄した海拓榴市一帯にある「金屋河川敷公園」
- まとめ
第十代崇神天皇皇居跡である磯城瑞籬宮跡
大神神社の二の鳥居から、南へ歩くと「平等寺」に出ます。
ここは、行ってみたら思っていたより、内容が濃かったので、また別の記事にしたいと思っています(;^ω^)
そのまま、山の辺の道を歩いて行き、大神神社から徒歩13分で「磯城瑞籬(しきみずがき)宮跡」に出ます。
ここは、第十代崇神天皇の皇居跡だったと伝わっています。
初代である神武天皇の、次の、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までは、実在が疑われる「欠史八代」と呼ばれています。
…が、この崇神天皇からは、実在した可能性が高いと言われています。
となると、この地はまさしく、古代大和朝廷の初期の頃の拠点…ということになりますね。
こんな地に立てて、感激ヽ(^。^)ノ
しかし、当時を偲ぶものは、何も残っていません💦
磐座?でしょうか、大きめの石がたくさん祀られています。
この磐座は、崇神天皇の頃から、ここで、時代の変遷を見つめ続けているのでしょうか?
また、この地は同時に「志貴御縣坐(しきのみあかたにいます)神社」でもあります。
神社としての創建や由来は、不明だそうです。
古くから、聖なる地…として、地元の人たちから祀られてきたのでしょうか。
境内は、とても神秘的な雰囲気を醸し出しています✨
奇しくも、崇神天皇の御世には、疫病が流行り、多くの人が亡くなった…と伝わっています。
当時の人々が、ご神託に従って、三輪山に大物主大神を祀ったところ疫病が静まったとのこと。
さて、この令和の御世でも、コロナウィルスで世界中が悩まされています。
たとえ、科学や医学が発達しても、救いを求め、平癒を求める気持ちは、今も当時も同じなのだと思う今日この頃です。
廃仏毀釈から守られた「金屋の石仏」
さて、 磯城瑞籬宮跡から離れて、とてもいい感じの道を歩いていきます♬
すると、2分ほどで「金屋の石仏(重要文化財)」が収められている、小さなお堂に出ます。
この石仏は、もともとは、近くにある平等寺(大神神社の神宮寺の一つでした)にあったものですが、明治初期の廃仏毀釈で、寺とともに破壊されそうになっていたのを、村人たちが助け出し、ここに祀ったと言われています。
中の石仏を、格子の隙間から撮影してみました☟
左が「弥勒如来像」、右が「釈迦如来像」と言われています。
小さい石仏ですが、作られたのは、平安時代初期あるいは鎌倉時代ではないかとも!
ちなみに、赤茶色の石は、石棺の蓋と考えられています。
見事な浮彫ですが、何よりも、周辺の人たちに愛され、大切にされていることが素晴らしいですね✨
この「金屋の石仏」周辺には、ベンチやトイレもあり、こじんまりとはしていますが、綺麗に整備されています。
「歌垣」で知られる「海拓榴市(つばいち)観音堂」
ここから、さらに6分ほど、山の辺の道を歩いて行きます。
すると、とても小さな観音さんを祀ったエリアに出ますが、少しわかりにくいです💦
この看板が目印なので、見逃さないようにしてくださいね☟
この海拓榴市の地は、古代から栄えた交易市でしたが、長谷寺詣での宿場としても栄え「枕草子」「源氏物語」「かげろう日記」などにも登場します。
また「歌垣」が盛んで、若い男女たちが歌を詠み交わしたと伝わっています。
「海拓榴市観音堂」の隣には、トイレとベンチも完備されています。
そして「歌垣」で知られた土地らしく、近隣の方々が詠まれた歌も張り出されています✨
約1500年前の「仏教伝来の地」
ここから、南にまた進路を取ります。
県道を超えると、こんな道案内が…☟
そう…ここは「長谷寺」へと続く「初瀬街道」であり、さらには「伊勢街道」へと続く、交通の要所です。
さきほどの「海拓榴市観音堂」から、徒歩3分で「仏教伝来の地」に到着します☟
欽明天皇の御世であった6世紀初頭に、百済からの使節が川を遡り、この地に上陸して仏教を伝えたと言われています。
ここは「初瀬街道」「伊勢街道」であるばかりではなく、西は大和川が、難波さらには瀬戸内海まで続き、南は飛鳥から紀伊に伸び、北は奈良市や京都に繋がる交通の要所で、大いに繁栄しました。
現在の静かな風景からは、想像するのが難しいかもしれません…
☝ですが、遣隋使が帰国してきた時の想像図が壁に描かれているので、想像の助けになりますね(*'▽')
心なしか、人々のざわめきが聞こえてきそうです✨
この後、仏教が日本に定着するまでには、崇仏派である蘇我氏と、廃仏派である物部氏との間で、熾烈な争いが繰り広げられていきます…💦
古代に繁栄した海拓榴市一帯にある「金屋河川敷公園」
この「仏教伝来の地」の碑がある大和川(初瀬川)一帯は「金屋河川敷公園」として整備されています。
遣隋使の小野妹子が、隋の使者である裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国した際に、大和朝廷が、75頭の飾り馬で盛大に迎えた…という逸話から、まるで、子ども用の遊具のようなかわいい馬が河川敷に並べられています☟
またちょうど、この河川敷の奥辺りが、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや) 跡とされています。
交通の要所であり、聖なるご神体である三輪山を背にしたこの地は、都にふさわしい場所だったのでしょう。
しかし、今は昔。
現在は、のどかで静かな空間となっています。
※金屋河川敷公園へは、大神神社から徒歩19分です。
《参考文献》
まとめ
この古代の大和朝廷繁栄の地に立ってみて、いろいろと考えたことがあります。
ここでは、百済からの使者により、仏教が伝わってきましたが、仏教は思想と同時に、お寺や仏像などの建築技術なども伝えてきてくれています。
我々の先祖は、文化を伝えてくれた大陸の人々に感謝と敬意を払いつつ、技術を真似るだけでなく、よりよいものへと改良し続け、海外からも一目置かれるような、独特の「日本の技術」を長い年月をかけて培ってきました。
しかし、現在のコロナウィルス感染拡大により、日本では生産していない(できない)ものが現実にたくさんあることが、はっきりとしてきました。
この教訓を踏まえ、今後は、国内生産・国内回帰に向けて、「技術の日本」として、ちょっとは舵を切ってほしいな、と、個人的には感じております。
さて、この「金屋河川敷公園」は桜の名所でもあります。
今年は、3月23日に訪れましたが、まだこんな状況でした☟
今週末から来週にかけて、満開になりそうですね(´艸`*)
では最後に、去年の桜の写真を貼ろうと思います🎵
来訪日は、2019年4月6日です。
この金屋河川敷公園の桜は、ちょっとした穴場でもあります。
とても綺麗な桜を、古代に想いを馳せながら眺めてみるのも、なかなか乙なモノですね(´艸`*)
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※一つお知らせがあります。
私、クマ子は、いろいろあって失業・求職中だったのですが…☟
遂に、採用通知をいただきました♪
しかも、やってみたかった観光協会でのお仕事です☟
4月1日から、勤務になります💦
このため、仕事に慣れるまでの間、皆さんのブログにお邪魔することや、Twitterもあまりできないかもしれませんが、温かく見守っていただければ幸いです(*'▽')
最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>