kumakuma blog   クマ子の奈良歩き

奈良県の観光やお役立ち情報を発信していきます(*'▽')

渋沢栄一と奈良県の深い関わり

今年の大河ドラマである「青天を衝け」

コロナ禍で放送が中断されても大人気だった、前作の「麒麟がくる」の直後から放送され、そのままの流れで見ましたが、こちらもとても面白い内容で、毎週楽しみにしています(*'▽')✨

「麒麟がくる」についてはコチラ☟

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さて、「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一ですが、意外にも奈良県との関わりも深かったようなのです。

 

今回は、渋沢栄一と奈良県…にスポットを当てて、ご紹介したいと思います。

 

尚、参考文献は「月刊大和路ならら2021年7月号・近代奈良の発展に尽力した 川路聖謨&渋沢栄一」…一択です(笑)☟

         

※今回の記事の内容は、渋沢栄一の最晩年の頃のお話で、おそらく大河ドラマでは描かれることがない部分だと思いますが、「青天を衝け」の今後の展開を楽しみにされ、少しでもネタバレに繋がるような記事は読みたくない…と思っている方は、「青天を衝け」放送終了後にお読みくださいませ<m(__)m>

 

 

法隆寺「聖徳太子1300年御遠忌法要」での奔走

私のブログで何度も取り上げている、斑鳩町にある世界遺産・法隆寺

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その法隆寺を創建したと伝わる聖徳太子の存在は、お寺にとって、無くてはならない大切なものとなっています。

法隆寺

法隆寺 西院伽藍

 

このため、622年に薨去したと言われる聖徳太子の法要は、毎年行われるのはもちろんのこと、その節目節目でも、法隆寺創建以来長きにわたり、途切れることなく行われていました。

 

ところが、1250年御遠忌法要(明治3年)の時は、お寺も大変に衰退し、堂塔も痛みが目立ち、わずかな関係者のみでひっそりと営まれるありさまでした。

そう、明治初期の廃仏毀釈の嵐が、この古寺にも吹き荒れていたのです。

法隆寺
この状況を打開すべく、法隆寺自身も大変に努力をし、工夫を重ねたことと、明治の中期に「古社文化財保存法」が制定されたりしたことなどから、法隆寺は少しずつ、息を吹き返していきます。

 

そんな中で、「聖徳太子1300年御遠忌法要(大正10年)」の時こそは、盛大に執り行い、国民全体が讃仰する機会にしたい…という、法隆寺やその関係者たちの思いが結集し、大正7年に「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」が産声を上げます。

 

しかし、法隆寺は檀家を持たない寺であり、盛大な法要を、自ら主催する財力がありません。

そこで、奉賛会の中心メンバーであった、黒板勝美・東京帝国大学助教授が、渋沢栄一の元に尽力を仰ごうと出向きます。

 

この時、栄一は男爵(後に子爵)で数え年77歳。

すでに実業界からは引退し、社会事業や道徳普及運動、民間外交などに尽力していた時期でした。

渋沢栄一


その当時の栄一は、当初「自分は元来水戸学を修めた者で、大逆の臣・蘇我馬子と事を共にした太子の立ち振る舞いは、大義名分上から賛成できない」と断ったそうです。

「青天を衝け」での、渋沢栄一像と一致するようなエピソードですね。

 

そこで、黒板助教授が、水戸学者の説は基づく資料に誤りがあることをはじめ、丁寧に事実を話したところ、栄一は充分に理解し『何とかしてあげよう』と引き受けたそうです。

 

いったん引き受けると、さすがは渋沢栄一❕…と思うような活躍が始まります。

中でも、渋沢栄一の長所は、行動が早いこと

なかなか決まらない奉賛会の会長を決めるために、様々な有力者のところに、持ち前の迅速な行動力で、どんどん足を運びます。

 

前述の黒板助教授は『黒板勝美談話日記』(財団法人竜門社所蔵)に、栄一の活躍ぶりを次のように記しています。

「奉賛会の関係のことは大小となく子爵にご相談申し上げ、その度に常に要領よく決裁してくださいましたし、子爵の御決裁を得ておくと非常に安心して仕事ができるので小さなことでも子爵まで持ち込むことになる」

「寄付金が予定の1.5倍に達した時などは非常に喜ばれて『自分の関係した数多くの寄付金募集の中で、予定を超過したのは明治神宮奉賛会とこの会だけだ。皇室中心の思想のいやしろなるを知るとともに、水戸学に基づく自分の古い考えが間違っていたことを証明するものだ』とおっしゃった。大正10年の一千三百年御忌に際しては子爵夫妻は何日も奈良に滞在して祭典に列席された」

 

何とも、渋沢栄一らしいエピソードだと思いました。

法隆寺

盛大に厳修された「聖徳太子一千三百年御忌」


結局、この奉賛会は、予定額の倍以上の寄付金が集まり、1週間に渡って行われた法隆寺1300年御遠忌法要は、全国から参拝者を26万人も集める大成功の事業となりました。

法隆寺

この辺りに「一千三百年御忌奉賛会」のメンバーがいそうな気配が…💦


また、この法要を期に、法隆寺は、聖徳太子が建てた寺として特別な存在となり、平成5年の、日本第一号の世界遺産登録に結び付くのです。

渋沢栄一は、近代の法隆寺にとっての、恩人でもあるのですね。

 

※上記二枚の写真の出典は【国立図書館デジタルコレクション『聖徳太子一千三百年御忌法要記念写真帖』】

 

奈良大極殿阯保存会(平城宮跡)

710年に元明天皇によって遷都され、奈良時代には日本の中心であった平城宮も、平安京に遷都後は、荒廃が進み、明治の初め頃には田畑となっていて、その跡を全く留めていない有り様でした。

 

渋沢栄一は、法隆寺での奉賛会とほぼ同時期に、旧都・平城宮跡の保存整備を目的に設立された「奈良大極殿址保存会」の評議員の任にも就いています。

 

『渋沢栄一伝記史料』によると…

大正2年2月

これより先、徳川頼倫・岡部長職・阪谷芳郎・岩崎久弥・三井八郎右衛門および栄一などの発起により、奈良市郊外の朝堂院跡に標石28基を、また大極殿址に内裏跡に記念碑を建立し、これらを保存せんとする趣旨の下に、奈良大極殿阯保存会設立せらる。栄一その評議員となる。これ月付をもって当会、発起人連署にて趣意書ならびに醵金(拠出金)勧誘状を発する。栄一、金500円を寄付す。大正12年に至りて事業完成す。

平城宮跡

平城宮跡 第二大極殿跡


現在の見事に復元されつつある平城宮跡があるのは、この当時の渋沢栄一たちの活躍がないと、目にすることができなかった光景だったのかもしれません。

平城宮跡

平城宮跡 復元された朱雀門

 

「平城宮跡」についてはコチラ☟ 

www.norikuma2.com

 

 

吉野神宮奉賛会

吉野神宮は、吉野町吉野山で吉野朝廷(南朝)を構えた後醍醐天皇の偉業を深く偲んでいた明治天皇により明治25年に吉野宮として創建されました。

橿原神宮・明治神宮に準じる神宮とされた吉野神宮でしたが、当時の社殿は規模が小さいうえに、荒廃が進んでおり、国家の崇敬社格にはふさわしくないとし、国費50万円をもって新たに社殿などを造営することを目的に発足したのが、奉賛会でした。

 

渋沢栄一は、大正13年(1924)年には「吉野神宮奉賛会」の顧問にも就任し、寄付金募集に尽力しました。

奉賛会の後押しもあり、大正12年から昭和7年にかけて再整備がなされ、本殿や拝殿など多数の建物が一新されて現在に至っています。

吉野神宮

吉野神宮 ~出典 吉野町観光協会~

この頃渋沢栄一84歳、晩年にも関わらず、本当にすごい活躍ぶりですね。

 

栄一の責任感

この「ならら」の本のおかげで、晩年の渋沢栄一が、奈良の文化財保存のために尽力したことが、よくわかりました。

最後に、一番心に残った部分を書き留めたいと思います。

 

それは、法隆寺の奉賛会の時に、黒板助教授が書き残した、前述の『黒板勝美談話日記』に記されています。

「私は子爵が激怒したのを一度だけ見たことがある。それは十五銀行が破綻した時で、奉賛会の会計理事が十五銀行の内部の人間で、(集まった寄付金を)同行に預金していたが、なんの対策も講じなかったので、会は大分損失を生じた。

この時、子爵は理事会の席上、顔を真っ赤にして、『十五銀行の内容が悪くなったのは知っている。多くの国民の浄財でなる財団法人は一文たりとも無駄にすべきではないのに、十五銀行の内容を知り尽くしている身でありながらなんら対策を講じないとは…なんのための会計理事か』と言って面と向かって責められた。やがてその理事は辞職して、ほかの人を入れることになった」

 

何という責任感。何という心がけ。

どこぞの国の、政治屋さんたちに聞かせたい…と思ってしまう言葉です💦

 

渋沢栄一が成功者となった理由は、まず第一に、日本の国や国民を豊かにすることを、常に考えていたから…ということが、よく理解できる内容でした。

 

「青天を衝け」は、現在オリンピックで中断中ですが、後半も楽しみになってきましたね✨

ただし、年内に放送が終了し、全41話だそうなので、このあたりのエピソードを放送してもらうことは望むべくもなさそうです…( ;∀;)

そんなわけで、奈良県と渋沢栄一との関りを、書き留めさせていただきました。

 

※なお「ならら」は、毎月発行の雑誌で薄い本ですが、ほとんど広告がなく内容がギッシリで、値段も安価、奈良好きの方にはとてもおすすめできる本です(*´ω`)

               

※しかも、この号で特集されている、もうお一方の「川路聖謨」は「青天を衝け」でも活躍していますが、この方も、江戸時代末期の奈良の発展に大変貢献してくださっています。

読んでて、けっこうウルウルしました(T_T)

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました<(_ _)>