今まで、奈良県斑鳩町にある法隆寺の概要についての投稿をいくつかさせていただきましたが…☟
今回からいよいよ、境内の中へ入っていきたいと思います。
第一回目は、有料ゾーン①西院伽藍内をご案内させていただきます。
西院伽藍は、名実ともに法隆寺の顔となっています。
あまりにも見どころが多すぎるので、2回に分けて書かせていただこうと思います。
法隆寺「西院伽藍」とは
法隆寺の玄関である南大門から入ると、真っ先に目に飛び込んでくるのが、中門と五重塔です。
中門から廻廊で囲われた部分が「西院伽藍」と呼ばれており、中には、現存する世界最古の木造建築物である「金堂」もあります。
そして、この西院伽藍にある建物は、なんと廻廊にいたるまで、すべてが国宝です。
七堂伽藍すべてが国宝のお寺は、法隆寺を除いて他にはありません。
まさに日本のみならず、人類の宝がこのエリアに詰まっています。
中門から向かって左側、西院伽藍の西南の角の部分に「拝観窓口」があります。
拝観券の購入は、こちらで行ってください。
日本最古の金剛力士像がある「中門」
西院伽藍への入口に当たる門「中門(ちゅうもん)」です。
何という美しい門でしょう。
飛鳥時代の壮麗な建築方法を今に伝えてくれています。
中央に膨らみのある柱は「胴張(エンタシス)」と呼ばれ、さらなる美しさを増しています。
門の真ん中に柱があるのが、特徴的です。
門の右側には「阿形」・左側には「吽形」の金剛力士像(重要文化財・奈良時代)がありますが、これは、日本に残っている最古のものです(711年安置)。
「阿形」は、紅く塗られていますが、これは創建当時のままで塑像となっています。
対して「吽形」は、16世紀に大修理を受け、顔以外はすべて木造に替わっています。
実は、ここまで書いてきた部分は、中門の正面から見える部分の話なので、拝観料を払わなくても、外からなら見ることができますよ(なぜか小声・笑)。
しかしながら、有料ゾーンである西院伽藍の中に入ると、中門の柱の傍までいくことができます。
よくテレビでも紹介されている柱の接ぎ木も、間近で見ることが出来ますよ。
こうやって、1300年もの間、この柱は大切に守られてきたのですね。
中門から見える南大門の風景も、とても素敵です。
中門は、昭和の中頃までは、入口として使われていましたが、現在は使われていません。
ただし、私はたまたま、昨年の新管長晋山式の時に法隆寺に行っていたので、中門が使われている状態を初めて目撃することができました☟
本日法隆寺にて、偶然にも、新管長・晋山式の様子を見ることが出来ました♬
— クマ子 (@xkumaco) October 22, 2020
普段は閉められている「中門」が開いてます✨
西園院の唐門も、今日はおめかし( ´ ▽ ` )
法隆寺130世住職のご誕生です❗️#法隆寺 #晋山式 #新管長 #斑鳩町 pic.twitter.com/DfJA8uCGu1
かなり感激✨
これからも、何かとっておきの行事の際には使われることがありそうですね。
最古の建物「金堂」の中にも宝物がいっぱい
西院伽藍に入り、向かって右手にあるのが「金堂」です。
法隆寺で最初に建てられた建物と考えられていて、世界最古の木造建築物です。
雲形肘木・卍くずしの高欄・人字形の割束・堂内のエンタシスの柱など、飛鳥時代の特徴を残しています。
建物だけでも十分素晴らしいですが、内部も見どころだらけなのです。
《金堂内の仏像》
左右に菩薩形の脇侍を従え、金堂内の仏壇中央に安置されています。
止利仏師(鞍作止利)により作られた、アルカイックスマイルを湛える仏像が素晴らしいのですが、何より14行196字が刻まれた光背銘が有名です。
その文章を読み解くと、聖徳太子のために作られた太子等身大の像と書かれています。
釈迦三尊像と同じく、光背銘(90字)があり、そこには「用明天皇が自らの病気平癒のために発願。その後、太子と推古天皇が、推古15年に作り奉る」と、刻まれています。
像そのものは、顔の肉付きやふくらみから、釈迦三尊より後の時代のものと言われています。
時代が下って、鎌倉時代のものではありますが、康勝(こうしょう・運慶の第4子)が作ったため、有名です。
また、光背銘には「承徳年中(1097~99年)に盗まれたため」…と、鎌倉時代作となった理由が書かれています。
なお、脇侍の勢至菩薩像は、幕末頃寺外に流出し、現在はフランスのギメ美術館にあり、今はお身代わり(レプリカ)が安置されています。
ポーズにあまり動きがなく、静かな棒立ちの四天王像です。そこがまた、重々しい迫力でもあります。
踏みつけられている邪鬼の表情もユニークです。
正月の国家安泰などを願う金堂修正会の際の、本尊とされています。
天井に吊るされた各仏像のための天蓋。
つい最近、新たに国宝に指定されました。
木造の天蓋は中国にも例がなく、これがただ一つの遺品となっています。
外側には、文様で彩られた上に木彫りの天人や鳳凰が付けられていて、それらは大宝蔵院でも見ることができます。
以上のように、現在の金堂内部には、これらの仏像が安置されていますが、これだけでも、金堂の面積を考えるとかなり密になっています。
しかしなんと、11世紀頃まで、現在は大宝蔵院に置かれている百済観音・玉虫厨子・橘夫人厨子なども金堂にあり、仏像や寺宝で内部はぎゅうぎゅうだったそうです💧
むかしは、金堂とはいえ、収蔵庫も兼ねていたらしく…
また、寺僧でもなかなか入れない閉鎖的な金堂でした。
やがて、金堂でお寺の行事などが行われるようになり、しだいに開放されるようになりました。
金堂内が一般の人々に公開されるようになったのは、元禄3年(1690年)の開帳からです。
世界遺産保存への意識を高めるきっかけ~金堂壁画
もともと、金堂の壁面には、四方12面の大小の壁に、釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の四大浄土を表した壁画と、20面の小壁に飛天(空中を飛ぶ天人)を表した壁画が描かれていました。
それらは、インドのアジャンター石窟院や中国・敦煌の壁画とともに、世界的に有名なものでした。
ところが、昭和24年1月26日、不慮の火災によって壁画が焼損。
幸い、昭和の大修理中で、飛天の壁画20面は切り取って、別のところに保存していたために被害を免れました。
この時、法隆寺の管長であった佐伯定胤師は、燃え盛る金堂の中に飛び込もうとされ、周囲の僧たちが必死になって、押しとどめました。
常胤師は、焼けた壁画の前に長時間立ち尽くしておられたそうです。
法隆寺の歴代の管長の中でも偉大なる第123代・佐伯定胤師は、この火事の責任を取って退任されました。
焼損した壁画はすべて樹脂で剥落を止め、壁画のための収蔵庫を造って、焼けたままの状態で保存されています。
現在の金堂壁画には、昭和42年に模写された壁画のパネルが嵌め込まれています。
この火事がきっかけとなり、1950年に文化財保護法が制定されました。
また、法隆寺では毎年1月26日に、防災訓練と法要が行われています。
この金堂壁画は「法隆寺金堂壁画ガラス原板デジタルビューア」で再現されていて、法隆寺の公式サイトからネット上で見ることができます。
ここで見ると、世界に誇れる壁画の細部までよくわかりますね☟
また現在、JR法隆寺駅の自由通路の壁に、再現壁画装飾が行われていますので、法隆寺駅を使ってアプローチされる方は、必見です☟
※法隆寺の参拝情報やアクセスについては、コチラをご覧ください☟
《参考文献》
まとめ
このように、金堂だけの説明でも筆が止まらないくらいの見どころもりだくさんな西院伽藍です(*'▽')
次回も、西院伽藍を取り上げ、残りの建物をご紹介したいと思います。
なお、今年は聖徳太子1400年御遠忌の年です。
その法要が、4月3日(土)~5日(月)の間、盛大に行われます。
コロナ禍で、どのような形になるのかはよくわかりませんが、その時の様子がニュースなどで明らかになるのを楽しみにしています。
「聖徳太子1400年御遠忌」についての注意事項~法隆寺公式サイトより
~「聖徳太子一千三百季御忌法用記念写真帖」より~
最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m