Twitterを覗いて下さっている方はご存知だと思いますが…
先日、生まれて初めて沖縄に行ってまいりました。
…で、このブログのタイトルは「クマ子の奈良歩き」なので、奈良県外のことは「クマ子の卒母DAIRY」の方にアップしようと、当初は思っていたのですが…。
いろいろと考え直し、歴史的な要素や奈良県に繋がるようなことに関しては、この「奈良歩き」の方に書き、それ以外の要素については「卒母DAIRY」の方に上げることにしました。
そして、今回の沖縄旅行のメインの目的は、母と行く「慰霊の旅」でした。
母の父、つまり私の祖父は、沖縄戦で戦死しており、もうすぐ喜寿を迎える母が、元気な間に、平和記念公園にある平和の礎のところに刻まれている、戦没者の碑の祖父の名前のところの写真を撮りたい…との願いからでした。
最近めっきり引きこもりがちの父と、仕事で忙しい弟に声をかけるのを、早々に諦めた母が誘ってきた時は戸惑いましたが、私も祖父が亡くなった場所を見たいという想いがあったので、行くこととなりました。
今回の記事では、「平和祈念公園」と「旧海軍司令部壕」を中心に、戦没者の方々に敬意と哀悼の意を表しつつ、ご紹介していきたいと思います。
平和記念資料館にあった衝撃の展示の数々
まず一番最初に、目的の場所に行ってしまおうと、平和の礎のある平和祈念公園に向かいました。
ところがこの日は、本州でも爆弾低気圧が押し寄せていた強風の日…。
雨はたいしたことはなかったのですが、傘が折れそうなほどの強風だったため、先に「平和祈念資料館」に入ることにしました。
沖縄戦の悲惨さは、皆さま、すでにご存じと思います。
太平洋戦争において、日本の領土で唯一、地上戦が行われ、90日に及ぶ激戦の末、20数万人もの犠牲者を出しました。
なかでも特筆すべきは、民間人の犠牲者が約半数…という点です。
当時はまさに、地獄絵のような状況だったのだと察せられます。
そんな沖縄戦での様子を展示してある平和記念資料館のことを克明に説明すると、いくら文字数があっても足りません。
なので、一つだけ。
衝撃的な写真が何点か展示されていました。
爆弾の着弾により、手足がちぎれた状態で横たわっている人たち。
銃で撃たれて、仰向けに倒れている女性。
…そんな写真ばかりの中で、私の目は、ある一枚に釘付けになりました。
小学六年生くらいの男の子でしょうか。
あどけない顔で、眠るように地面に横たわっています。
ただし、その男の子は、軍服を見にまとい、血だらけなのです。
戦争さえなければ、この子は、友だちと遊び、まだまだ親に甘えていたい年頃だったはずです。
なのに…。
救いようのない状況の中、僕が家族を守るんだ!と思い、出撃したのでしょうか。
私は、あまりの衝撃に、涙も出ませんでした。
目を逸らしたいけれど、逸らしてはいけない・真実から逃げてはいけないのだと思いました。
私が、展示を見終わって、展示室外のソファーで待っていても、母はなかなか出てきませんでした。
祖父は、陸軍所属であったことはわかっているのですが、どこで戦死したのか、撃たれたのか、戦病死だったのか、自決したのか、捕虜になったのか…詳細は何もわかっていません。
そして、戦争が終わった時、母は5歳。
父親の記憶は、ほとんどありません。
きっと、展示を見ながら、いろんなことを考えているんだろう…と思いながら待っていたら、約40分後、すっきりした顔で出てきました。
その顔を見た時、「来てよかった…」と思えました。
《見学情報》
「沖縄県平和記念資料館」
〒901-0333 沖縄県糸満市字摩文仁614番地の1
電話番号 098-997-3844
営業時間 9時~17時(ただし常設展示室への入場は16時半まで)
定休日 年末年始(12月29日~1月3日)
常設展示室観覧料 大人300円 小学生~大学生150円
駐車場 無料・普通車352台
那覇空港から、車で約30分
平和の礎・祖父の名を探して歩く
少しだけ雨風も弱まり、祖父の名を刻んだ碑を探しに、平和の礎に向かって歩いて行きました。
戦没者の名は、都道府県別に刻まれているので、すぐに見つけることが出来ました。
しかし、このたくさんの碑のうち、半数以上が沖縄県の方々です。
どれだけ多くの県民の方が犠牲になったのかが、よくわかります。
平和の礎を後にしようとした時、母が「死んだ後で、こんなに綺麗にしてもらっても…」と、呟いていました。
母は、4人兄妹の3番目ですが、すぐ上の姉を、戦後の栄養失調で亡くしています。
子どもを4人抱えて、夫を失った祖母は、戦後相当苦労したらしく、娘が日に日に衰弱していくのを見るのがたまらなく辛かった…でもあの時は、食べさせてあげれるものが何もなかった…と、生前言っていました。
それだけに、母の呟きは身に染み、碑の後方にあった言葉にも納得させられました☟
鎮魂の地・ひめゆりの塔
平和記念公園を後にし、ひめゆり学徒隊の悲劇で知られる、ひめゆりの塔に向かいました。
ここへは、多くの人が訪れ、花を手向けていました。
悲劇が起きた、第三外科壕にカメラを向けることは、何となく憚れる気分だったため、周辺の写真だけ撮りました。
激戦地跡に植えられている美しい花。
花が踏みにじられずに咲けるのは、平和でなければ無理ですね。
母が、二度ほど来たことがあるらしいので、ひめゆり平和記念資料館には入らずに、次の目的地へ向かいます。
那覇空港から、車で約20分
激戦の跡が生々しく残る「旧海軍司令部壕」
この日最後の目的地は、海軍の司令部壕があったため、激戦地となり、最後にはここで、司令官及び幹部6名が自決した「旧海軍司令部壕」です。
高台から地下に向かって掘り進められて作られていましたが、戦後しばらく放置され、遺骨収集が終わった後の昭和45年3月に、一部が復元されました。
幕僚室には、司令官たちが自決した際に付いた手榴弾の跡が残っています。
また、下士官兵員室では、玉砕が近い6月頃には、立錐の余地もないほどの兵が、立ったままで睡眠や休息を取った…と言われています。
沖縄本土へは、地形が変わるほどの量の爆弾が撃ち込まれたらしいので、もう逃げ場もなく、この狭い部屋でも束の間の休息になったのかもしれません。
また、資料館の方には、自決した幕僚たちが家族に宛てた手紙が展示されています。
子どもが、どんなふうに成長しているのか想像している様子、もうすぐ生まれてくる子どもに会いたい気持ち…
それらが、もう帰ることは叶わない…と覚悟する自決前まで、順番に展示され、胸を打たれます。
また、海軍司令官であった、大田少将が自決前に海軍次官に宛てた電報の内容は、驚きでした。
沖縄がもう間もなく陥落する…と聞かされた本土では、沖縄県民の中にアメリカ軍のスパイがいる…というデマが、まことしやかに囁かれていたらしいのです。
それを憂えた大田司令官は、「沖縄県民はかく戦えり」と、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えると共に、戦後、沖縄県民に格別の計らいを賜れるよう嘆願している内容でした。
いろんな意味で、戦争の不条理さを感じ、胸がいっぱいになる電文でした。
ここは高台にあり、外に出ると、はるか南西に広がる海まで見渡すことができます。
ここから見た、当時の沖縄の街は、建物が跡形もなく吹き飛ばされ、東シナ海はアメリカ海軍の船で埋め尽くされていたのでしょうか。
周りを海に囲まれ、逃げ場もなく、県民の犠牲者も多く、おそらくは絶望しかない状況だったことでしょう。
想像するだけで、頭がおかしくなりそうな切迫感に襲われます。
最後に、パンフレットの中に見つけた「沖縄戦による戦没者数」を挙げておきます☟
《見学情報》
「旧海軍司令部壕」
〒901-0241 沖縄県豊見城市字豊見城236番地
電話番号 098-850-4055
営業時間 8時半~17時半(7~9月/18時閉館)
8時半~17時(10~6月/17時半閉館)
定休日 年中無休
参観料 大人450円 小人230円
駐車場 無料
那覇空港から、車で約10分
終わりに…
母のお供で訪れた沖縄。
沖縄戦の跡をたどっていくと、改めて、戦争の悲惨さと平和のありがたさを痛感しました。
沖縄戦だけでも、これだけの犠牲を出しているのに、それでも太平洋戦争全体の一部です。
ちなみに、私の父方の祖父は、満洲に出兵した後、シベリアに捕虜として抑留され、彼の地で戦病死しました。
あまりにも大きすぎる犠牲と引き換えに、今の平和があることを胸に、その犠牲を無駄にしないために…。
戦争を知る世代である、私の両親も高齢になってまいりました。
そんな中で私たちが出来ることは、この悲劇をいつまでも語り継いでいくこと。
私は、このことが重要だと思います。
人間は、忘れ去ってしまう生き物なのですから。
最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m
※この記事内の情報は、2020年1月27日現在のものです。実際に行かれる際には、最新情報をご確認くださいますようお願いいたします。
尚、別ブログ「クマ子の卒母DAIRY」の方の最新記事では、日本最大級のイルミネーションで知られる「なばなの里」のレポをあげております♪
こちらもご覧いただけると幸いです( *´艸`)