さて、前回、唐招提寺を取り上げてから、はや一ヶ月半ほど経ちまする…☟
ちなみに「唐招提寺シリーズ」の一回目はコチラです☟
番外編で、沖縄に行ったり、ブログの話をしたり、桜に浮気(笑)しているうちに、遅くなってしまいましたが、クマ子の奈良歩き「唐招提寺シリーズ」第三弾として、鑑真和上御廟周辺・その他マニアックゾーンをご紹介したいと思います(・ω・)ノ
1回目にご紹介したのは赤色のエリア、前回ご紹介するのは青色のエリア、そして今回は緑色のエリアになります。
- 静寂な雰囲気に包まれた「鑑真和上御廟」
- 「東洋のトルソー」が見れる「新宝蔵」
- 創建当時の様子がわかる「宝蔵」と「経蔵」
- 唐招提寺の鎮守社である「弁天社」にあるもの
- 鑑真和上ゆかりの「水鏡天神社」
- まとめ
静寂な雰囲気に包まれた「鑑真和上御廟」
さて、前回の記事でご紹介した「御影堂」から、趣のある塀づたいに、東に歩きます。
この一角は、木々が生い茂り、静寂な境内の中でも、とりわけ静けさを感じるエリアです。
ここに、この唐招提寺の開祖である鑑真和上が眠る御廟があります。
門を入ると、樹と苔が左右に植えられています。
とても、静かで美しい空間です。
観光客はひっきりなしに訪れますが、ここでは大声を出す人はいません。
しばらく歩くと、池があります。
池も、一つではなく、左右にあります。
そして、苔むした石が、周囲と調和している手水鉢があります☟
石燈篭があり…
ようやく、鑑真和上御廟に辿り着きました。
来日するまでに12年…何度も渡海に失敗し、日本にたどり着いた時は、失明していた…という話は、あまりにも有名です。
加えて、当時の中国(唐)は、出国することは法律で禁じられていました。
そこまで苦労したにもかかわらず、鑑真和上が来日してから、亡くなるまでの9年間が報われたものであったかどうかについては、首をかしげざるを得ません。
鑑真和上を日本に招いた聖武天皇が存命の間は、大僧都の地位を与えられ、日本に受戒を定着させるための試みに対しての補助もありました。
しかし、聖武天皇が亡くなられてからは、授戒制度に反発する勢力に押しやられ、遂に東大寺から離れることになった鑑真和上…。
この唐招提寺の地を与えられてからは、補助も途絶えがちになり、授戒制度の寺として確立しようとした鑑真和上と、その後を継いだ弟子たちの苦労は、大変なものだったようです。
そんな逆境もかえりみず、現代まで1300年もの間、唐招提寺は存続してきました。
鑑真和上の強い意志に、心を揺さぶられた人々が繋いできた想いも、この令和の世まで伝えられています。
《参考文献》
この「瓊花」は初夏に花を咲かせる木ですが、これを手植えしたのが、中国の総書記を務めたこともある「趙紫陽」です。
鑑真和上は、日本と中国の懸け橋となった人物として両国から敬われています。
唐招提寺に来られたら、金堂や鼓楼ばかりではなく、ぜひ、この「鑑真和上御廟」にも、足を伸ばしてみてください(*'▽')
「東洋のトルソー」が見れる「新宝蔵」
では、鑑真和上御廟を後にして、南にある階段を下ります。
すると、唐招提寺に伝わる宝物を集めた「新宝蔵」があります。
この「新宝蔵」は残念ながら、いつでも拝観できるわけではありません。
春と秋だけ、一般公開されています。
ここでは、上の写真にもある、腕や頭を失った仏像たち(国宝・「東洋のトルソー」と呼ばれている)を見ることができます。
「ミロのヴィーナス」もそうですが、完全ではない・何かが欠落している像って、どうしてこんなにも人を魅了するのでしょう。
この「東洋のトルソー」だけでなく、孝謙天皇の宸筆による「勅額(重要文化財)」や、金堂の屋根の上にある奈良時代に作られた鴟尾(しび・国宝)も展示されています。
拝観料金はかかりますが、公開されている時期に来れた方はぜひぜひ!
入られることをおすすめします♪
《新宝蔵・特別拝観情報》
入館料 大人200円 高校生・中学生・小学生100円
(3月1日~6月30日・9月1日~11月30日・12月31日~1月3日の期間のみ開扉 9時~16時)
「新宝蔵」を出て、西に少し歩くと「滄海池(そうかいいけ)」があります。
この池は、鑑真和上が渡った大海原にちなんで命名されたらしいのですが…
池の水が…
きっ、汚い…(゚Д゚;)
季節が変われば、また状況は変わるのかもしれませんが(撮影時期は1月)、この時は、イメージとはかけ離れていました(・_・;)
池の水がキレイな状態を見てみたいです(~_~;)
創建当時の様子がわかる「宝蔵」と「経蔵」
では、気を取り直して(笑)、
「滄海池」から、そのまま西に少し行くと、二棟並んだ蔵のところに出ます。
蔵の正面に立って、向かって右側にあるのが「宝蔵」☟
典型的な校倉造の建物で、唐招提寺創建時に作られたと言われています。
二つの蔵は、見た目はとてもよく似ているのですが、見分け方としては、この「宝蔵」の方が大きいことです。
そして、向かって右側が「経蔵」☟
こちらは、お隣の宝蔵よりもさらに古く、日本最古の校倉造と言われています(それなのに、正面から撮った写真がない💦)。
ちなみに、唐招提寺の地は、もともと、天武天皇の皇子であった「新田部(にいたべ)親王」の邸宅があったところでした。
新田部親王自身は、元正・聖武天皇のもとで出世し、朝廷でも重要な地位を占めていました。
しかし、息子の塩焼(しおやき)王は、孝謙天皇の時代に、藤原仲麻呂の乱に連座し、乱の最中に殺害されます。
その後、謀反人の土地として、官に没収されたのち、鑑真和上に譲られることとなります。
《参考文献》
この「経蔵」は、新田部親王邸の米倉を改造したものといわれています。
「経蔵」は、この地で、めまぐるしく動く世の中を見つめてきたのでしょう(なのに、正面から撮った写真がない💦)。
二つの蔵が並び立つところの写真を、一枚の写真に収めることはできませんでした…(/_;)
唐招提寺の鎮守社である「弁天社」にあるもの
次に、唐招提寺の鎮守社である「弁天社」に向かいます。
小さいですが、とても風雅なお堂です。
一通り見て、次に行こうとしたけど…
ちょっと待って!
何やら、気になるモノが…
そして、ここにも…
鎮守社である「弁天社」の紋が、ハート形⁈
これは、もしかして…
ここ、唐招提寺で毎年5月に行われる「中興忌梵網会(うちわまき)」の時にまかれる「ハート形」のうちわと同じ形です\(◎o◎)/!
もしかしたら、唐招提寺のうちわの形は、この弁天社の紋と関係があるのでしょうか?
ちなみに、このハート形のうちわのストラップ(けっこう可愛い)などが、弁天社近くの売店で販売されています☟
御朱印所も、こちらの売店の中にあります。
鑑真和上ゆかりの「水鏡天神社」
これからご紹介する「水鏡天神社」は、唐招提寺の境内にあるのではありません。
下の地図の、黄色の△辺りにあります。
境内からは、「滄海池」と売店の間にある、塀の間から、神社の姿を見ることが出来ます☟
ポツポツと、お参りされる方を見かけますが、観光客というより、地元の方っぽいです。
この一帯で、昔から大切にされている神社みたいですね。
ここは、鑑真来日の際、海に落ちた舎利瓶を救った龍神を祀る神社と言われています。
森の中に建つ、厳かな雰囲気の神社です。
神社の縁起からも、鑑真和上ゆかりの神社であることがわかりますね。
唐招提寺から見て、東北の位置にあるので、鬼門を守る役割もあるのかもしれません。
この「水鏡天神社」は、唐招提寺の中から行くことはできません。
南大門から出て、東側の駐車場から入ってくださいね。
※唐招提寺へのアクセスや拝観情報はコチラ☟
※世間はコロナで自粛ムードですが、唐招提寺の拝観料が、令和2年4月1日より値上げになります。
600円 ⇒ 1000円 に改定されます(・_・;)!
《参考文献》
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・唐招提寺発行公式パンフレット
・奈良まほろばソムリエ検定奈良通1級用の認定支援セミナーで配布された資料
まとめ
さて、今回は、このシリーズの中で最もマニアックゾーンをご紹介しました( ̄▽ ̄;)
こんな内容を説明させていただけるのも「奈良まほろばソムリエ検定奈良通一級受験のためのセミナー」を受けにいったからでございます(・ω・)ノ
何も知らなければ、メインの伽藍だけを回って終わってしまいますが、いろいろ勉強してから行くと、見るところがたくさんあって、ワクワクが止まりません( ̄▽ ̄)♪
次回の第4弾で、メイン伽藍である「講堂」周辺をご紹介して、唐招提寺シリーズを終了する予定です。
よろしければ、またお付き合いしてやってくださいませ(*'▽')
最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>