以前の記事で、今年の「奈良まほろばソムリエ検定奈良通一級」の特別問題に指定されているのが「唐招提寺」であるため、しばらく唐招提寺にスポットを当ててご紹介していきたい…と書きました☟
その後、試験勉強でバタバタしている間に時は過ぎ…
1ケ月以上経ってしまいました(;'∀')
そして既に、今年の奈良まほろばソムリエ検定も終了しました。
そういう状況の中…こんなペースで恐縮ではありますが、勉強したことによって更に、唐招提寺の魅力について知ることができましたので、引き続き「唐招提寺」については、ほそぼそと更新していく予定でおります(;^ω^)
そんな訳で、今回もお付き合いいただければ幸いです(^ ^ゞ
ちなみに、前回ご紹介したのは赤色のエリア、今回ご紹介するのは、青色のエリアになります。
唐招提寺の最重要施設であった「戒壇」
では、国宝だらけの金堂を離れ、唐招提寺の境内の西部にある「戒壇」に向かいましょう。
戒壇とは⇒僧となるための授戒がおこなわれる場所です。
もともと鑑真和上は、日本に正しい受戒の仕方を伝えるために来日された方ですから、この戒壇が、唐招提寺の存在理由…と言っても過言ではありません。
なんとなく、異国情緒漂う建造物ですね。
江戸時代に火災によって失われたため、現在残っているのは、鎌倉時代に再建された石段と、昭和53年(1978年)に築かれた、インド・サンチーの古塔を模した宝塔のみです。
ここのエリアには、危険をかえりみず来日した鑑真和上と、彼の意志を継いで、このお寺を大切に守り継いできた人々の想いが詰まっているように思えてなりません。
戒壇は、土塀で周囲を囲まれており、南側には門があります。
瓦の模様☝
瓦もお上品です(*''ω''*)
戒壇の門へ向かう道です。とても味わいがありますね(*'▽')
東側の門から、戒壇を望みます☝
さっきまで見ていた戒壇の、ちょっと違う風景が見れます♪
また、戒壇の東側には「はす池」があります。
訪れた時は、すでに9月になっていたので、もう花はありませんが、蓮の時期に来れば、唐招提寺の雰囲気と相まって、とても美しく咲くのだろう…と想像できます(´艸`*)
このポスターは去年のものですが、奈良・西ノ京ロータスロード(西大寺・喜光寺・唐招提寺・薬師寺)の中に、唐招提寺も含まれていますので、蓮の見頃の時期には、お隣の薬師寺と合わせて、ぜひ訪れてみたいですね(*''ω''*)
薬師寺の蓮については、こちらの記事をご覧ください☟
このまま、北に向かって歩いて行きます。
はす池の東側は、もともとは僧房であった「西室跡」ですが、今では、唐招提寺で美しい花を咲かせることで有名な「萩」が植えられています。
萩は華やかというよりは、控えめな美しさを持つ花なので、唐招提寺の雰囲気にはピッタリだと思いました。
そして、「はす池」の反対側に目を向ければ、唐招提寺中興の鎌倉時代の僧侶である「覚盛上人」が住んだと言われている「応量坊」の佇まいが見えてきます☟
ちなみに、毎年5月に、ここ唐招提寺で行われる「中興忌梵網会(うちわまき)」という、たいへん有名な行事は、この「応量坊」の住人であった「覚盛上人」を偲んで行われています。
「応量坊」は、非公開なのですが、何とも言えない味わいのあるエリアです(^^)
わびさび…という言葉がピッタリな感じがします(*''▽'')
かつて最上の水が湧いたと伝わる鑑真ゆかりの「醍醐井」
さて「応量坊」の北側には、こんな碑があります☟
残念ながら、何と書かれているのか、文字は判別できません(>_<)
…が、そのさらに北には、こんな建物があります☟
もっと接近して、中を覗いてみると…
井戸です!
残念ながら、今の様子は清らかな水…とはとても言えませんが、かつては、鑑真和上が自ら掘り、極上の水をたたえていた…と伝わってきているそうです。
そのため「醍醐井」と呼ばれ、今でも覆屋付きで管理されています。
また、醍醐井の東側に藤棚があります。
その前にある、この井戸?らしきものの正体は、よくわからないのですが…☟
藤棚の下の石は、なんとなんと!唐招提寺・幻の東塔の礎石らしいです☟
ちなみに、東塔跡といわれている場所は、現在の寺域外である水鏡天神社の南西側になります。
下の地図で見ると、青色の▲印のところです☟
そして現在は、こんな感じで…☟
当時を偲ぶ、よすがもありません(>_<)
とういうわけで、醍醐井のところにある礎石?を見ると、ほんの少しでもイメージできるような気になってきます。
また、唐招提寺の「西塔」に関しては、もともとなかった…という説と、境内の外の西側にあった…という説の、両方があるようです(;^ω^)
「食堂跡」で往時を偲ぶ
では、醍醐井から東へ、鑑真和上御廟の方向へと歩いて行きます。
醍醐井のすぐ先にあるのが「本坊(蔵松院)」です☟
ここは、江戸時代に唐招提寺復興に尽力した「英範」が住んでいたところですが、現在は非公開になっています。
この「蔵松院」のあたりの土壁が、またいい雰囲気を醸し出していますね♪
しばらく行くと、右手に「食堂跡」が見えてきます。
苔むした地面に残る、食堂の礎石です。
この食堂跡周辺は、あまり人がたくさん来ないので、静かに往時を偲ぶことができます。
この食堂跡の外れには、小さな神社が建っています☟
当初、人の子どもを喰っていた鬼子母(きしも)が、仏に諭され悔い改めて鬼子母神となったのを祀ったもので、そのいわれから、安産や子どもの守り神として知られています。
一見、鑑真和上とはあまり関係がなさそうな小さな神社ですが、これが境内にあることによって、地元の人々とも結びついていたことの証になるのかもしれません。
御身代わりの鑑真和上像を祀る「開山堂」
さて、その先にあるのが「開山堂」です☟
ここには、国宝である「鑑真和上像」の御身代わりとして、平成25年につくられた「鑑真和上御身代わり像」が、常時展示されています。
国宝の「鑑真和上像」は通常、鑑真和上の命日の前後となる、6月5日~7日の間しか特別開扉されないので、こちらで鑑真和上像のレプリカが見れるのは、ありがたいことですね。
しかしながら、レプリカとは言え、鑑真和上像は撮影禁止になっています(;'∀')
ちなみに、開山堂の方からは金堂側が見え、こんな風景を目にすることができます☟
この開山堂へは、私は裏側から到着しましたが、表側から見ると、こういう建物です☟
「開山堂」は、もともとは元禄時代に徳川家の御霊殿として建立されたのが始まりで、その後、明治時代に、鑑真和上像をお祀りするようになったそうです。
そして、もとからこの場所にあったわけではなく、創建当初は、蔵松院の南側に建てられていたものを移築したようです。
江戸時代に徳川家に信仰されたことで、伽藍の維持が出来たという背景もあるようです。
残念ながら平成大修理中…「御影堂」
さて、開山堂の北側にある「御影(みえい)堂」は、もともと興福寺の別当坊だった「一乗院宸殿」を移築した重要文化財なのですが、残念ながら、現在平成大修理中です。
ここには、国宝である「鑑真和上像」が安置されています。
ですが、この平成大修理の期間中は、例年の開山忌である6月5日~7日の特別開扉は、新宝蔵でおこなわれます。
また、御影堂の障壁画は、有名な「東山魁夷」画伯が描いたもので、とても見応えがあるのですが、この障壁画を拝むためには、修理が終わるのを待つしかありません( ;´Д`)
その日を心待ちにしましょう♪
尚、前回の記事でも言及していますが、令和2年4月から、一般拝観料が600円から1000円に上がります!
御影堂の竣工は、値上げまでには間に合いませんね(;・∀・)ウ~ム
御影堂の入口の門の様子☝
尚、この御影堂の南西にある「地蔵堂」は、地蔵盆(8月23日&24日)の期間のみ公開、また「中興堂」は、通常非公開で、不定期にある特別拝観の時しか、見ることができません。
※唐招提寺へのアクセスや拝観情報はコチラ☟
《参考文献》
|
・唐招提寺発行公式パンフレット
・奈良まほろばソムリエ検定奈良通1級用の認定支援セミナーで配布された資料
まとめ
今回は、唐招提寺の中でも、比較的マニアックなポイントを中心にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか(^ ^)
有名な国宝ゾーンもいいですが、マニアックゾーンは静かで心落ち着くので、私は特に好きです(*‘∀‘)
また、開山堂の東側には、北原白秋(1885年~1942年)の詠んだ碑が置かれています。
「水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして 花よりもなほや白う匂はむ」
やはり、北原白秋も鑑真和上の苦難を偲んだ歌を詠んでいますね(/_;)
北原白秋は、50代頃に視力を失ったそうで、その境遇がさらにこの歌に繋がったのかもしれません。
本当に、この唐招提寺の境内には歌碑が多いです。
鑑真和上の生涯にインスピレーションを受ける詩人が多いのと、境内の静かな雰囲気が名歌を生み出す原動力となるように感じました(*''ω''*)
次回は、鑑真和上のお墓のある「開山御廟」周辺をレポしたいと思います。
また、別ブログ「クマ子の卒母DIARY」では、クマ子の実際の体験をもとに、失業給付受給中のことを金銭面をメインに書かせていただいた記事をアップしています。
こちらも読んでいただけると幸いです(´艸`*)
最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>