皆さんは「吉野山」と聞いたら、何を連想されますか?
桜の名所、世界遺産などのフレーズが浮かぶ方もおられるのではないでしょうか。
吉野山は、奈良県内では古くから「南山(なんざん)」と呼ばれてきました。
また、紀伊山地の中核をなす山地であり、高峻な山岳地帯で、修験道の聖地としても知られてきました。
今回は、そんな吉野山を、歴史を紐解きながら、ご紹介していきたいと思います(*'▽')
※今までのこのブログのスタイルと違って、クマ子が吉野をしっかりと訪ねたわけではありません。ただし、自分がこれから行くために、予習の意味も込めてこの記事を作成させていただきました。
※写真は「吉野山観光協会」様のパンフレットより、引用させていただきました<(_ _)>
- 飛鳥時代に建立された修験道の聖地《金峯山寺》
- 平安時代の代表歌人の庵《西行庵》
- 源義経伝説が残る《金峯神社》
- 南北朝の騒乱を伝える《如意輪寺》
- 吉野山の歴史を物語る《吉水神社》
- 四水流の分水嶺として知られる《吉野水分神社》
- 明治に建立された神社《吉野神宮》
- 近代遺産《吉野ロープウェイ》
- まとめ
飛鳥時代に建立された修験道の聖地《金峯山寺》
金峯山寺は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」構成要素の一つであり、役行者を開基とするお寺です。
*役行者(えんのぎょうじゃ)…名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、彼は何者なのか?
7世紀末に大和国の葛城山を中心に活動した呪術者。生没年不詳。後に修験道の開祖として尊崇される。奈良県各地に、役行者の伝承が多数残されている。
役行者が金峯山を本拠地として修験道に励み、山岳信仰を世に広めたと伝えられるため、金峯山寺は修験道の聖地として古くから崇拝されました。
平安時代の、宇多天皇・藤原道長・頼道の参詣をはじめとする皇室・貴族の御岳詣は白河上皇の世に絶頂を迎えますが、明治の神仏分離令により金峯山一山の修験寺院はすべて廃されてしまいます。
その後、明治22年に規模をかなり縮小して復興しました。
天正20(1592)年頃に再建された「蔵王堂」、延元3(1338)年頃に建立された仁王門が国宝。
北側参道に立つ「銅(かね)の鳥居」(室町時代)が重要文化財。
毎年7月7日に行われる蓮華会が「蛙飛び行事」の通称で広く知られています。
平安時代の代表歌人の庵《西行庵》
『新古今和歌集』の代表的歌人として知られる西行法師(1118~1190)が俗界を避けて3年ほど隠棲したところと伝わっています。
吉野山の中でも、奥千本の辺りの、特に山深い場所です。
西行は、もと佐藤義清(のりきよ)といい、北面の武士として鳥羽院に仕えましたが、その後23歳で出家し、諸国を行脚しました。
吉野山を詠んだ歌が多く、愛着の並々でなかったことが知られています。
また江戸時代には、西行を敬愛した松尾芭蕉がこの地を2度、訪問しています。
西行庵の少しばかり東方に、西行が詠んだ苔清水があり、芭蕉も苔清水を題材に俳句にしているのです。
源義経伝説が残る《金峯神社》
吉野山の奥千本の入口付近に位置する金峯神社も、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」構成要素の一つです。
この周辺の最高峰・標高850mほどの場所に鎮座しています。
祭神の金山毘古神(かなやまびこのかみ)は『記・紀』に「伊邪那美命が火の神・迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだ時、みほとを焼かれて苦悶し、嘔吐物から生誕の神」とされており、金鉱持の地主神として、また生物の枯死を防ぐ神として崇敬されてきています。
※<源義経の隠れ塔>
源義経が、吉野山に潜伏していた際に、源頼朝の追手から逃れるために、身を隠したと伝わっている建物。金峯神社より700mほどの場所にあります。
南北朝の騒乱を伝える《如意輪寺》
如意輪寺は後醍醐天皇勅願寺で、裏山に後醍醐天皇塔尾陵と世泰親王(長慶天皇の長子)墓があります。
『太平記』には正平2(1348)年に楠木正行(まさつら)が後醍醐天皇陵に参拝したのち、髷を切り、辞世の歌を如意輪堂の扉(宝物殿に所蔵)に刻んで出陣したとあります。
木造蔵王権現立像(鎌倉後期)と延元元(1336)年制作の厨子が重要文化財に指定されています。
※<後醍醐天皇 塔尾陵>
第96代後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、建武の新政を行ったが、わずか2年で、足利尊氏により吉野へと追いやられ、そのまま彼の地で生涯を終えました。
陵墓は、如意輪寺境内にありますが、京に対する後醍醐天皇の願いを表すため(遺詔「玉骨はたとひ南山の苔に埋るとも魂魄は北闕の天を望まんと思ふ」)に、天皇家の墓陵としては唯一北向きとなっていて、「北面の御陵」として有名です。
長慶天皇(後醍醐天皇の孫・南朝の第3代天皇)の皇子の世泰親王が、一緒に葬られています。
吉野山の歴史を物語る《吉水神社》
吉水神社も、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」構成要素の一つであり、ご祭神は後醍醐天皇。
書院は初期書院造の代表的傑作で、重要文化財に指定されています。
もとより吉水神社は南朝の元宮であり、ここに後醍醐天皇を祭神とし、当時天皇の忠臣であった楠木正成(皇居前に銅像がある人物)、吉水院宗信法印を合祀しています。
寺院造りであるため、吉野山における廃仏毀釈という太政官布告のもたらした模式例ともいわれています。
『吾妻鏡』には、源義経が吉水神社に潜居したとあり、義経潜居の間なども。
文禄3(1594)年には、豊臣秀吉の花見の本陣となりました。
四水流の分水嶺として知られる《吉野水分神社》
吉野山を、上千本から奥千本へと向かう道中にある神社で、この吉野水分神社も世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」構成要素の一つ。
ここまで来るとかなり山深く、道も狭くなってきます。
古来より、祈雨のために建立された由緒ある神社で、桃山時代の重要文化財である本殿は、高い石段の上に建立され、中央春日造の主殿に左右流造の三殿が一棟につながる特有の造りとして知られています。
※かつて、西行庵に納められていた西行法師の木像は、今は吉野水分神社に移されています。
明治に建立された神社《吉野神宮》
明治維新後の天皇の権威が高まる気運を受けて、明治22(1889)年に、ご祭神を後醍醐天皇とし創祀されました。
奈良県では、古い建物が多いので、こちらも昔からある神社と思いきや、明治創建とのことで、かなり新しい部類に入る神社です。
近代遺産《吉野ロープウェイ》
近鉄吉野駅からのロープウェイは、国内では現役最古のもので、昭和4(1929)年開業、距離は364m、高低差は101mで、約3分間の空中散歩を楽しむことができます。
吉野山を移動するために、貴重な交通手段であるとともに、近代遺産ともなっています。
《参考文献》
まとめ
初めて、実際にきちんとした形で行ったことがない場所、吉野山をご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか💦
吉野山が、桜の名所であるばかりではなく、日本の歴史を語る上でも、節目に登場する舞台となった地であることがお伝えできていれば幸いです。
私も、この世界遺産の山を、遠い過去に想いを馳せつつ、近々ゆっくりと回ってみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました<(_ _)>