クマ子の法隆寺シリーズ、前回は「大宝蔵院」エリアをご紹介させていただきました☟
今回は、いよいよ聖徳太子を偲ぶエリアである、夢殿を中心とした「東院伽藍」エリアをご紹介いたします✨
今回の記事のエリアは、以下の境内図の緑色で囲った部分になります。
- 東大門を越えると広がる別世界
- 東院伽藍周辺には太子の「斑鳩宮」があった
- 美しい八角堂・夢殿
- まるで拝殿のような「礼堂」
- 聖徳太子のエピソードが詰め込まれた「舎利殿」と「絵殿」
- 東院伽藍でも見どころの「回廊」
- 奈良時代の貴族の邸宅だった「伝法堂」
- 美しい威容を誇る「鐘楼」
- 「開けずの門」と「閉めずの門」
- まとめ
東大門を越えると広がる別世界
東大門周辺は、無料エリアでご紹介する予定なので、まだ言及しておりませんが、ちょうど現在の法隆寺の境内の真ん中あたりに位置する門になります。
この門を越えると、東院伽藍が見えてきます。
ここでは、数軒のお土産物屋さんが出店されていることが、ごく稀にあります。
昔はもっと多かったようですが、現在もかろうじて残っているような印象です。
さて、正面に見えてくるのは、東院伽藍の入口にあたる「四脚門」。
なお、四脚門から伽藍をぐるりと囲んでいる大垣は、元禄時代のものです。
この門をくぐると、夢殿が目の前に。
その姿を目にすると、何度行っても胸が高鳴ります(*ノωノ)
手水舎には鳳凰が❕
珍しいですね。
東院伽藍周辺には太子の「斑鳩宮」があった
ところで、この東院伽藍の周辺は、聖徳太子が住んでいたという「斑鳩宮」があった場所です。
このことは、発掘調査からも明らかとなっており、
太子が亡くなって、およそ20年後に、太子の長子である山背大兄皇子一家が、蘇我入鹿らの襲撃を受けた際の、焼け跡の破片なども見つかっています。
私は以前、この近くにある斑鳩文化財センターでの企画展で、斑鳩宮の焼けた瓦の破片を見たことがありますが、その焼け跡から、当時の様子を想像し、胸が締め付けられるような気持ちになったことがあります(ノД`)・゜・。
結局、この入鹿の襲撃によって、山背大兄皇子を始めとする太子の一族である上宮王家は滅亡します。
※下記の記事で、斑鳩宮襲撃のことに少し触れています☟
悲しみの記憶を抱えたエリアであり、また、在りし日の太子の姿を偲ぶことも出来るエリアです。
東院伽藍を訪れる際には、そのような歴史にもぜひ、想いを馳せていただきたいと思います。
美しい八角堂・夢殿
東院の寺伝によると、太子一族滅亡後の斑鳩宮の荒廃ぶりを嘆き悲しんだ行信僧都が、東宮坊阿倍内親王(のちの孝謙天皇)に奏上し、夢殿をはじめとする東院伽藍を造ったとあります。
ここは「上宮王院」という別の寺院でした。
この美しい夢殿(奈良時代・国宝)は、八角円堂で、伽藍の中心に位置し、上宮王院の本堂です。
外観は、絶妙なバランスで建てられ、ため息がでるほど美しく、法隆寺の故・高田良信元管長は「まるで人格を持ったような美しさ」と称えていました。
また、屋根の頂上にある金銅製の宝珠露盤は、下から蓮座・請花・宝瓶・宝傘・宝珠・放光となっており、全体が一つの塔のような形をしています。
そして、内部の中心の厨子には、聖徳太子等身像と伝わる、かの有名な「救世観音像」が安置されています。
これだけ知られているにもかかわらず、像が造られてから、天平時代に夢殿の本尊となるまでの記録は全く残っていません。
東院の記録には、天平宝字5(761)年「上宮王等身観世音菩薩像」として初めて登場しています。
その後の嘉禄3(1227)年、勝鬘会の本尊とするために、この像の模造を造ったところ、たずさわった仏師が即刻死亡し、それ以来、完全秘仏になったともいいます。
いつから、白布で巻かれていたかも不明だとか。
しかし遂に、1884年に美術研究家のフェノロサ(アメリカ)や岡倉天心らにより開扉されました。
檜の一木造りで漆箔されているこの像は、金銅仏と見がまうような輝きとともに姿を現し、フェノロサたちに絶賛されました。
約180cmの長身で、目も鼻も大きく、唇の厚い口は左右に吊り上がって、笑いを含んでいるようにも見えます。
飛鳥仏の特徴を備えていますが、特異な表情を持っており、非常に個性的な尊像です。
現在ではそのお姿は、毎年春(4月11日~5月18日)と秋(10月22日~11月23日)の特別公開の際に見ることができます。
東院伽藍の中核をなす仏像ですので、タイミングが合うのであれば、この特別開扉の時期に参拝されることをおすすめします。
参拝にあたっては、特に追加料金は不要です。
また、夢殿内には他にも、東院伽藍を建立した「行信僧都坐像」、東院中興の祖である「道詮律師坐像(平安時代・国宝)」なども安置されています。
行信僧都坐像は、中国風の法衣をまとい、とがった頭、吊り上がった目、大きな耳、鋭い鼻などが表現されており、表情にはこの僧の個性が強烈に出ています。
天平の肖像彫刻としては、唐招提寺の鑑真像と並び称される傑作です。
夢殿内部は若干暗いですが、こちらもしっかりとご覧になってみてください。
救世観音像以外の像は、年間を通して拝観することができます。
まるで拝殿のような「礼堂」
夢殿の南側に建つ「礼堂」。
この名前の由来は、ここで夢殿に向かって礼拝する場所という意味です。
神社でいうところの拝殿のような役割ですね。
東院創建時、ここには中門がありましたが、いつの頃からか改造され、平安時代には礼堂になっていたようです。
聖徳太子のエピソードが詰め込まれた「舎利殿」と「絵殿」
今度は、夢殿の北側にある細長い建物に目を向けてみましょう。
この建物は、二つに分かれていて、「舎利殿」は東の三間が使われています。
聖徳太子が2歳の春、東を向いて合掌し「南無仏」と唱えると、その掌から現れたといわれる舎利を奉安する建物です。
また、正月元旦から3日間に限り、舎利を厨子から奉出し、「舎利講」という法要が行われています。
対する「絵殿」の方は、聖徳太子の一代記を描いた障壁画があることから、その名があります。
延久元(1069)年、秦致真によって描かれ、江戸時代に屏風に仕立てられ、明治11年に献納宝物となっており、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に所蔵されています。
現在、絵殿にあるものは、天明7(1787)年、吉村周圭によって模写されたものです。
尚、舎利殿と絵殿は通常非公開ですが、舎利講の期間(正月元旦~3日)のみ公開されています。
東院伽藍でも見どころの「回廊」
創建時の回廊は、北側が今のように絵殿・舎利殿に繋がらず、その前面を走っていました。
現在の回廊は、嘉禎3(1237)年に改築されたものと考えられています。
西院伽藍の回廊とよく似たデザインですが、円柱には胴の膨らみ、いわゆる「エンタシス」がありません。
これを見ると、エンタシスは飛鳥時代の流行だったのかもしれませんね。
奈良時代の貴族の邸宅だった「伝法堂」
絵殿・舎利殿の北側に、軒を接して伝法堂があります。
これは、聖武天皇の夫人だった橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅が寄進されたものといわれています。
現存する唯一の奈良時代の貴族の住宅建築のため、きわめて貴重な遺構です。
内部は公開されていませんが、多くの仏像が安置されているそうです。
美しい威容を誇る「鐘楼」
伝法堂の手前には、その美しさでひときわ目を惹く「鐘楼」があります。
袴腰に板が張ってあり、この形式の鐘楼としては最も古いものです。
梵鐘は、胴の部分に「中宮寺」と陰刻されていることから、隣の中宮寺より移されたとみられています。
※お隣の「中宮寺」についてはコチラ☟
この鐘楼の鐘は、ふだんは使われていませんが、舎利殿の舎利を出す時だけ撞かれます。
「開けずの門」と「閉めずの門」
さて、礼堂のさらに南側に、東院伽藍の正門である「南門」があります。
これは、別名「開けずの門(不明門)」と呼ばれています。
その名の通り、創建以来開けられたことがないようです。
はっきりとした理由はよくわかりませんが、聖徳太子を供養するお堂を中心とした東院は、いわば太子のための聖地であり、創建当時からあまり人を立ち入らせなかったし、また立ち入ることもなかったので、正面の門を開かないままにする習慣が生まれた…と推測されています。
また、南門の西には、正反対の名前がついている「閉めずの門」と呼ばれる棟門があります。
この門は名の通り、建造して以来閉められたことがないと言われています。
それは、近在の人々が、村と村の間を往来する時、寺の敷地内を通っていたため、閉めては不便なので、開けっ放しにする習慣がついた…とも(;^ω^)
ついつい、夢殿に目を奪われて、見るのを忘れがちになってしまいますが、この辺りも予習をしてから行くと、見どころがたくさんありますので、ぜひ忘れずにご覧になってみてくださいね。
《参考文献》
まとめ
聖徳太子を供養する目的で建立されたという、法隆寺東院伽藍をご紹介させていただきました。
今まで巡った「西院伽藍」や「大宝蔵院」とはまた違った雰囲気を感じることができますので、法隆寺に行かれる際には、ぜひ足を向けてみてください。
※「法隆寺」の拝観情報等については、コチラをご覧ください☟
最後までお読みいただき、ありがとうございました<(_ _)>