今回は、先日の奈良まほろばソムリエ検定奈良通1級受験のための体験学習プログラムにて、参加した道のりからの名所を、引き続きご紹介いたします(訪問日2019年11月17日)。
ニッチェな観光ポイントではありますが、いろんな時代の奈良の歴史を、さまざまな角度から見ることが出来て、ワクワクしますよ(*‘∀‘)
「奈良まほろばソムリエ検定奈良通1級受験のための体験学習プログラム」についてはコチラ☟
前回は「帯解寺」と「龍象寺」をご紹介しました☟
では、江戸時代の勉学のレベルが垣間見える《算額》のある「円満寺」、
不思議な古墳「ベンショ塚古墳」、
中世の戦乱の跡を伝える「窪之庄城跡」および、
舎人親王の墓ではないかと言われている「黄金塚陵墓参考地」を、
Nara観光コンシェルジュさんにしていただいたガイドをもとに、レポしていきたいと思います。
《算額》のある「円満寺」
この「円満寺」は、前回の「龍象寺」から、こじんまりとした古い町並みの中を、東に歩いて4分のところにあります。
JR桜井線帯解駅からは、徒歩5分です。
「円満寺」は、「八坂神社」と呼ばれる神社の境内に、お堂が一つだけ残っているお寺です。
八坂神社は、創建当初は「祇園社」と呼ばれていたそうで、御祭神は「素戔嗚尊(スサノオノミコト」です。
「円満寺」自体のもともとの創建は、奈良時代だったそうですが、江戸時代に焼け、本堂のみ残ったようです。
さて、このお寺で有名なのが、本堂に上部に掲げられている《算額》なんです!
これは、江戸時代に、和算の問題を記して、神前・仏前に奉納した絵馬の一種です。
絵馬?
大きいですね(;・∀・)
地元で和算の勉強をしていた人が、和算習得の成果を<算額>として奉納したようです。
こんな問題作って、解いてみたぞ!<(`^´)>エッヘン…という感じなのでしょうか(;^ω^)
よく見ると、算数?の問題が書かれているそうなのですが、私には、内容はチンプンカンプンでした(笑)。
しかし、これは、江戸時代の和算のレベルがどのくらいだったのか、また和算が世間にどのくらい広まっていたのか…こういったことがわかる、非常に貴重なものだそうです。
尚、円満寺の本堂に掲げられている算額はレプリカで、本物は「奈良埋蔵文化財センター」に展示されています。
我こそは、江戸時代の和算の問題を解いてみよう…と思われる方は、コチラからどうぞ('ω')ノ☟
また、奈良市には「弘仁寺(円満寺より南東に3.7kmのところにあります)」にも、2つの算額があります。
奈良市内には、合計3つの算額があることになりますが、弘仁寺も円満寺も距離が近いので、江戸時代に、この近辺で算額が流行していたのかもしれませんね~。
また、八坂神社には立派な鳥居が、北側にあります。
そこから入ってすぐのところに、小さな橋があります。
一見するだけでは、あれ…橋の下に川がない…と思ってしまいますが。
実はこの橋の下は暗渠になっている可能性が高いそうです。
この先の道路の下の水路に、流れ出ているのを確認しました!
こういうことは、ガイド付きで行かないと、絶対わからないので、得した気分になりました(*'▽')
暗渠で、テンションが上がる、謎の生き物クマ子( ̄▽ ̄;)…
この「八坂神社」を出て、東に向かおうとするところに、道標が立っています。
山村御殿(円照寺)の名前が出てきました♪
この道標に沿って行くと「北山の辺の道」へと続いていきます。
まさかの…「古墳⁇」驚きのベンショ塚古墳
さて「円満寺(八坂神社)」を出て、東に約6分歩くと…
クマ子が時たま、この辺りを車で通るたび、信号待ちの時に「なんか不思議な神社…」と思っていた建造物が、前方に現れます☟
赤い鳥居がいくつか並んでいるので、自分の中でだけ「超プチプチ伏見稲荷⁈」とかいう変な名前を、付けていた場所(爆)。
なんと、これが目的地の「ベンショ塚古墳」だったのです。
てっきり、神社オンリーだと思っていました(;^ω^)
周濠部分を含めると、全長100メートルもある大きい古墳で、5世紀ごろの築造と言われています。
前方部は、いちじるしく掘削されていますが、集濠跡の状態はかなりよく、この古墳からは「兜」や「鎧」「鞍」「矢じり」などの鉄製品が、数多く出土しています。
お宝ザクザク…レベルですね(笑)。
尚、出土品は「奈良埋蔵文化財センター」に行けば、見ることが出来ます。
古墳の規模と豪華な埋葬品からも、この地方にいた有力な豪族のお墓ではないかと言われています。
いちおう、この神社には名前があるようで「森常稲荷神社」というそうです。
当然ながら、先に古墳があったと思うのですが、わざわざここに神社を作ったのは、何かの言い伝えがあるのか、それとも、五穀豊穣を願って作られたのか…
それとも、神社が作られる時には、すでに古墳としての面影を留めていなかったのか…。
見れば見るほど不思議な神社…もとい!古墳です(;・∀・)
でもクマ子は、謎が解けて、ちょっとすっきりしました♪
中世の大和国の戦乱の跡「窪之庄城跡」
さらに、ベンショ塚古墳から、南東に歩いて8分。
途中の道のりは、こんなにのどかです♪
そして、今回の目的地辺りにもまた「八坂神社」と呼ばれる神社があります。
この「八坂神社」の境内である、鬱蒼と茂った森の中に「窪之庄城跡」があります。
ここは、室町時代に「窪城氏(大乗院宗徒)」の屋敷があったと伝えられていて、応仁の乱(1467年)の頃には、城郭化が行われていたと考えられています。
大和国の守護は、大名ではなく興福寺でしたが、その興福寺も「一乗院」と「大乗院」に分かれていき、戦国時代には、地元の有力な宗徒を巻き込んで、互いに争うようになります。
その争いが、奈良の各地に戦火を呼び込むことになりました。
窪城氏は、古市氏に従っていましたが、この城を筒井氏との戦いで焼かれ没落し、その後は、筒井氏に帰順します。
つまり、ここは中世の戦いの、生々しい爪痕が残っているのです。
社殿の後ろには、郭(くるわ)があります。
その後ろは、見事な堀切が残っています☟
けっこうな高さがあります。
この郭と堀切で、敵が攻めてきた時に防御していたそうです。
かなり大がかりなもので、迫力が伝わってきます!
こんなところまで、敵が攻め込んできたら、さぞかし怖いだろう…と実感( ゚Д゚)
全体的に、かなりの急斜面です。
斜面で滑り出し、トレッキングシューズではなく、スニーカーを履いてきたことを後悔(;´・ω・)
でも、アップダウンを自身で体感したことによって、その当時の戦いの厳しさを体感することができました!
☝この「窪之庄城跡」から出る時は、こんな道を下っていきました(;^ω^)
なんだか、知らない道を探検しているみたいで、子どもの頃を思い出しました(*ノωノ)
けっこう、楽しい…♪
尚、この窪之庄城跡を訪れる場合は、夏季は避けた方が良さそうです。
草がぼうぼうに生えて、虫が多いそうなので…( ゚Д゚)
舎人親王陵墓?「黄金塚陵墓参考地」
まだまだ、探検は続きます…
窪之庄城跡から、8分ほど歩きます。
そのまま、竹藪の中を通っていきます。
すると…「黄金塚陵墓参考地」に到着します。
天武天皇皇子であった舎人親王の墓ではないか…ということで、宮内庁の管轄になっています。
ところが、発掘調査の結果、舎人親王の時代よりさらに前の7世紀中頃に作られたことがわかり、現在では被葬者不明となっているみたいです。
しかし、この古墳(方墳)は、外提がものすごく大きくて、120m✖65mもあり、なおかつ高さも4m…という規模です。
そして、丁寧に石敷きされていること、また、室生石と呼ばれる上質の石が使われていること(室生石が使われている古墳は、ほとんどが宇陀市周辺のもの)…などから、飛鳥時代の権力に近い人物の墓ではないかと言われています。
《参考文献》
まとめ
ちょっとマニアックなスポットをご紹介させていただきましたが、いかがでしたでしょうか。
今回訪れた場所は、ガイドさん無しでは、なかなか行きづらいというか、わかりづらいところばかりでした。
お堂にかかっている「算額」は、何も知らなければスルーしてしまうと思うし、窪之庄城跡も、郭や堀切について、その場で説明してもらえなければ、理解しづらかったと思います。
しかしまさか、訪れる人の少ない、北山の辺の道方面に、 古墳時代から中世までのいろんな遺跡が残っているとは思いませんでした(;^ω^)
この地域に住んで、精一杯生きていた人々の想いを、感じることが出来た道のりだったと思います(*‘∀‘)
次回はいよいよ、北山の辺の道のルートに入っていきます!
最後までお読みいただきありがとうございました<(_ _)>